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世界遺産・平泉(10)「秀衡と義経と頼朝」(3)  .






頼朝肖像画(wiki)



【源頼朝】 .

先ず、頼朝にとっての奥州は、かつては自らの直系のご先祖が治めていた土地であった。(前九年の役、後三年の役の源頼義、義家) 

当然、秀衡ならずともその経緯は知っていたはずで、義経の事があろうがなかろうが、頼朝が考えている事は「平家の次ぎは奥州藤原氏である」と察していた はずであろう。
こうなると必然、奥州の独立を保つためには、頼朝との徹底抗戦しかないわけである。



清和源氏の一流で「河内源氏」の棟梁源義朝の三男として誕生し、幼名は「鬼武者」と称した。 
三男だが、当時は母の家柄が重んじられたため、頼朝は当初より嫡子として扱われた。 

義朝が「平治の乱」で敗北し、父とともに東国へ逃れようとしたが、義朝は逃亡中の尾張で家臣の裏切りにより殺され、頼朝は平清盛のいる京の六波羅へと送られた。
清盛は、継母「池禅尼」に頼朝の命を助けることを請われ、「伊豆蛭ヶ小島」に流した。
そんな中で、伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と結ばれる。


治承四年(1180)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートをきった。
併せるように、奥州にいた弟・義経が参戦のため馳せ参じる。

義経は兄の代官となって義兄弟の木曾義仲を打ち破り、一の谷、屋島、そして壇ノ浦で平家一門を壊滅させた。
その最大の功労者は源義経であることは衆人が認めるところであった。
しかし、その戦功を上げるに逆比例して、頼朝との間が遠のき、軋轢を生じ、遂には殺してしまうのである。


肉親であり、兄弟である頼朝、義経が何故不仲になったのか・・?、
その理由として世間では諸々言われてはいるので、読者想像にお任せする。
当時は、親兄弟といえども平気で争い、殺しあう、戦乱下克上の時代でもあったのだ。

後の世に下り、新しき時代を切り開いた人物、織田信長や徳川家康、明治新政府を磐石たるものにした大久保利通、いずれも冷徹、冷厳さを持ち合わせていた。


頼朝が義経を生かしておけば、必ずや義経を利用して叛乱を企てる輩(やから)が現れただろうし、また義経自身が叛乱を起こしたかもしれない。 つまり、このような時代なのである。


それに何よりの誤解は、義経自身が「義経に落ち度が無く、無実の罪で一方的に死に追いやられた」と思い、いくら本人に悪気が無かろうと、彼自身の思い込みや官位を勝手に受けたことは頼朝や関東武士団が苦労を重ねて築き上げつつあった鎌倉幕府を一挙に瓦解しかねない危険な想い、行為、罪深い行いだったのである。 

義経が兄・頼朝に出したとされる鎌倉の手前の腰越で書かれた「嘆涙の腰越状」を読むに当たっても、頼朝は情に流されず、確乎たる信念のもとに冷徹な『』を下したのであった。



治承四年(文治元年・1185年)、平家を滅ぼした頼朝は、いよいよ奥州に手を伸ばすことになる。
頼朝にとって幸いな事に、奥州藤原氏の大黒柱として君臨していた三代目・藤原秀衡が亡くなる。 
しかも、鎌倉の許可を得ず勝手に官位を受けた事で怒りをかった弟・義経が、この奥州・平泉に逃げ込んでいた。


頼朝は、新当主・藤原泰衡に揺さぶりをかけるべく、義経追討の院宣を受け取る。
そして、翌・文治五年(1189年)6月、その揺さぶりに屈した泰衡が義経を追い詰め、その首を差し出す。
ここで頼朝は第一の目的は達したことになる。 
しかし、それから1ヶ月とたたないうち、頼朝は、今度はその泰衡追討の院宣を朝廷に求める。
建久三年(1192年)、頼朝は征夷大将軍に任じられ、奥州全域を平定することになる。


頼朝軍は大軍をもって平泉に入ったが、泰衡は逃亡し平泉は既に火が放たれて放棄された後だった。
泰衡は出羽(後の羽後国)方面へ逃亡していたが、郎従によって殺害され、その首級は頼朝へ届けられた。
頼朝は厨川に到達して、泰衡の首級を晒し、奇しくも祖先の源頼義が安倍氏へ下した処分の故事を再現したことになったのである。

頼朝は平泉へ戻り、戦後の奥州支配体制を固めると同時に、奥州全域を鎌倉の直轄地とした。
頼朝の本当の狙いは、義経を倒し、藤原一族を滅ぼした後、奥州全域を手に入れることだったのである。


次回、「平泉の浄土と浄土思想



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