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世界遺産・平泉(2) 「陸奥の国・平泉」 ,

平泉藤原文化の象徴・中尊寺金色堂

平泉町の航空写真と世界遺産
古代、「
陸奥国」は大和朝廷の勢力圏の北端に位置していた。
そして時代によって、陸奥の国の範囲は平安時代に入るまで定かでなく、大和朝廷が実効支配していたのはほぼ現在の福島県、宮城県の一部の地域であって、それ以外、以北は蝦夷(えみし、えぞ;古代の奥羽から北海道にかけて住みつき、言語や風俗を異にして大和朝廷に服従しなかった人びと、原住民)の支配する豊穣の地であった。
奥州は蝦夷という民族の国であり、当時の朝廷から見ると他民族であり外敵でもあったのである。
九世紀初頭になって、「
坂上田村麻呂」を指揮官とする朝廷軍の侵攻により、大和朝廷の勢力は現在の岩手県にまで到達し、鎮守府と称する胆沢城(現在の岩手県奥州市)に移される。
その後、大和朝廷の勢力は順次北上し、10世紀半ばには岩手郡が成立して「
奥六郡」が完成したと考えられている。
11世紀には陸奥の俘囚の長(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷の民、奥州の原住民)であった安倍氏が、大和朝廷から「
六郡の司」と呼ばれる地位を与えられて、この地域に大勢力を築いている。
安倍氏の支配地は、北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(ぬかべ;現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。
しかし後に朝廷と対立し、陸奥国の奥六郡周囲にに柵(城砦)を築くなど、半独立的な勢力を形成していた。 更に、貢租を怠る状態になるなど、朝廷への反抗的行為を示した為、朝廷は安倍氏の懲罰を実行、両者の間に戦闘が勃発した。
源頼義率いる討伐軍との間で「
前九年の役」と呼ばれる戦いを繰り広げる。
安倍貞任は頼義に対し終始優勢のうちに戦いを続けたが、秋田仙北の俘囚主清原氏が度重なる頼義の要請に応えて参戦すると、これを支えきれず貞任は敗北し、安倍氏の勢力は失われた。
代わって、奥六郡は出羽清原氏に継承される。
ところがその20年後、今度は出羽清原氏に内紛が発生し、これに源頼義の子・源義家が介入して「
後三年の役」と呼ばれる戦乱が勃発する。
最終的に奥六郡は安倍氏の惣領であった安倍頼時の孫で、藤原摂関家の末流を名乗る「
藤原清衡」(藤原4代の初代)が支配するところとなった。
その後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの凡そ100年の間、陸奥・平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張ることになる。
長治2年(1105年)に清衡は本拠地の平泉に最初院(多宝寺ともいい、後の中尊寺)を建立する。
永久5年(1117年)には基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。
その後、基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。
更に、天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。
屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。
奥州藤原氏は
清衡、基衡、秀衡、泰衡と四代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となったのである。
次回、「
藤原三代へ」
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