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世界遺産・平泉(6) 「三代・藤原秀衡」 ,
藤原秀衡肖像画(毛越寺所蔵 wiki)
藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡、そして藤原泰衡らによって、藤原一族による凡そ100m年間わたって奥州支配が続くことになる。
ただ、四代目の泰衡は、華やかな藤原文化としての実績は余り残していないようで、逆に、藤原家に命乞いをしてきた義経を、奇襲にて殺してしまうなど、歴史的にも印象の悪い行為を残している。
従って、奥州における隆盛を誇った藤原時代は、実績的には清衡、基衡、秀衡の三代というのが一般的らしい。
その三代目・藤原秀衡について
基衡亡き後秀衡は、日鎮守府将軍に任ぜられ、更に陸奥守に就いている。
国府(古代、制令で定められた一国ごとに置かれた国司の役所)は多賀城にあったが、実質的には平泉が陸奥国の行政の中心であり、白河以北を完全に支配している。
秀衡は平泉・中尊寺を増改築するなど、奥州藤原氏の最盛期に生きた人であった。
しかし、国内の政治的世情は乱世の真っ只中で、「平家にあらずんば人にあらず」(平家でなければ人間とは言えない、源氏は人間以下だと言うこと)と息巻いた平家も源氏の勢いに圧倒されつつあった。
義朝の総領であった源頼朝が鎌倉で挙兵する。
この際、秀衡は平家、朝廷よりの源氏追討の令旨(りょうじ、れいし;皇太子、親王および王・女院の命令を伝える文書)を受けながら、幼い頃から源義経を匿い、義経の頼朝軍への参加の援助をするなど、その政治姿勢に一貫性を欠いていたともいわれる。
その義経は源氏の大将として最後の「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡に追い込むが、頼朝との感情的政争に破れ、平泉に再び現れる。
藤原秀衡は思案した結果、義経を総大将として頼朝軍と戦うことを決意するが、義経の行く末を案じながら「伊予守義顕(義経)ヲ大将軍トナシ国務セシムベキ由、男泰衡以下ニ遺言セシム」(吾妻鏡)と言い残し、病で急逝した。
没年は不明だが、遺骸のレントゲン検査の結果から70歳前後と見られている。
秀衡の死後、息子の泰衡は頼朝の命によって衣川の義経の館(高館;義経が最期に住んでいたとされる屋敷で、中尊寺の東南にある丘陵の地にあり、衣川館または判官館とも呼ばれる。頂に義経の像を祭る義経堂もある)を襲う。
義経亡き後の奥州軍は既に頼朝軍の敵するところではなく、泰衡はもろくも敗北し、奥州藤原氏は滅亡し、事実上の鎌倉政権の範疇に利することになる。
次回、 「都の政変と清盛」 ,
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