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世界遺産・平泉(21) 「平泉と北上川」 .
平泉を流れる「北上川」
奥州藤原氏による平泉文化と呼ばれる中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される東北独特の文化圏を形成した。このことは北上川の豊かな流れを利用した川舟の流通無しには考えられない。
北上川の舟運は、当時の経済及び軍事や政治においてまさに生命線ともいえるもので、舟運路の確保は各豪族たちの関心事であった。
平泉の藤原三代の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される奥州・藤原文化のように東北独特の栄華を極めた平泉は、北上川の河畔に築かれていて、所謂、平泉文化圏を形成した。
それには「北上川」が社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。
北上川は、上流の盛岡市から花巻市、北上市、水沢市、一関市、河口の石巻市まで中規模の都市が川沿いに点在している。
北上川の流域は社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしており、国指定史跡、名勝、天然記念物の多くが川沿いに分布し、北上川と密接に結びついている事を知ることが出来る。
近年、平泉の岸辺から藤原氏の政庁跡とみられる柳之御所跡の遺跡が発見されているが、確かに、奥州藤原氏二代の基衡が、毛越寺にまつる仏像を作った時、京の仏師に贈った褒美は船で送られたともいわれる。
又、毛越寺の円隆寺には中国や南方産の木材が使われておったし、柳之御所跡で見つかった青磁や白磁は中国で作られたものとされ、奥州藤原氏の時代に、海を越え、北上川を遡って様々な交流があったことが伺える。
北上川に関する記述は、既に奈良朝の8世紀には、中央政府が軍事用の航路として記載されている。
東北を支配していた蝦夷のアルテイを討とうとして大敗を喫するが、この場所が主に北上川河畔で、船着場である河港であったとする記述である。
又、平安初期には坂上 田村麻呂が東北に遠征し、蝦夷のアルテイを降伏させて統治し、その時の支配地として北上川の上流域に、胆沢城(奥州市)や志波城(盛岡市)を造ったが、その時の様子を「日本後記」にも記されている。
尚、これをキッカケに、9世紀初めには鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転している。
平安後期、中央の朝廷の命により源頼義、義家が陸奥の国の雄・安部頼時、貞任を討った1062年の「前九年の役」には、衣川や厨川くりやがわ;盛岡)の北上川の沿岸各地に要害である柵(軍事的防御施設)を築いたこと。
又、1189年の衣川の合戦(源頼朝の要請を受けた藤原泰衡が、源義経の衣川の館を襲い、義経を自刃へと追い込む)の際、両軍が平泉で対峙しているとき、北上川が洪水をおこし、両軍とも大きな損害を被った、などと古記に記されているという。
次回、「平泉と北上川(2)」
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