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世界遺産 日光大紀行(78) 日光・明智平・Ⅱ
明智光秀というと、秀吉との山崎の合戦で敗れ、敗走途中で土民の竹槍によって命を落とすという説が専らであるが、一方で実は、光秀は比叡山に逃れ南公坊天海、天台宗の僧として生きていたとする説なのである。
「天海僧正=明智光秀」説には、色々面白い次のような理由がある。
1,比叡山には、江戸時代に明智光秀によって寄進された石灯籠がある。本能寺の変は1582年、江戸開府は1603年、石灯籠に刻まれている寄進の日付は1615年で、この年代にはすでに明智光秀は死亡している年代である。
しかし、寄進の日付からすると1615年までは生きていた証ではないだろうかということ。
2,光秀の木像と位牌のある慈眼寺(京都市右京区)の寺号と、天海の謚名が同じ「慈眼」(慈眼大師)であるということ。
3,日光東照宮の陽明門の脇にある、二対の大礼服の随身の座像の着物には、明智家の家紋・桔梗紋があること。
4,三代将軍将軍、家光の乳母に春日の局(お福;明智光秀の重臣・斎藤利三の娘)の登用。
5,二代秀忠の「秀」と、三代家光の「光」をあわせれば「光秀」となる。
6、大阪岸和田にある本徳寺に光秀の位牌が残っており、その裏に「当寺開基慶長四巳亥」と書かれている。
慶長4年に光秀が寺の寄進者になっていて、慶長年間に光秀が生きていたことになる。この他、光秀の肖像画も残っており、その肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる一文がある。
尚、日光は、東照宮が建設される前から、多くの山伏や勝道聖人などの手により神道と仏
教の聖地であった。
そこには二荒山(男体山)という名から「二荒山神社」などもある。
この「二荒」を音読みすると「にっこう」となり、「日光」と命名された。
日光は天海が銘々したものとされ、日光には光秀の「光」と言う字が取り入れられたという噂も聞こえる。
次回、華厳の滝
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