世界遺産の日光の寺社群、
カレンダー
最新記事
(01/04)
(01/04)
(01/03)
(01/02)
(12/28)
カウンター
フリーエリア
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
45、日光の世界遺産;二社一寺 「輪王寺大猷院と徳川家光公」(2)
http://rinnoji.or.jp/keidai/homotu/past/homotu-pic/iyemitu.jpg
輪王寺大猷院と徳川家光公
家光は、「二世権現、二世将軍」と書いた紙を、常に守り袋の中に入れていたという。
父・秀忠の存在を欠落させている一方、自分を将軍後継者に指名した家康への崇拝の念は非常に強く、家康をまつる日光東照宮を、秀忠が造営した物を改築し、自分の色に染め上げ、現在見られる壮大なものを完成させている。
「家光」の名乗りは、かの家康の側近住職とされる「崇伝」の選定であった。
彼は、側近に恵まれた人物であった。
秀忠の頃からの重臣、土井利勝・酒井忠世の他、家光が誕生すると側近として使えた稲葉正勝(春日局の子)、知恵伊豆と言われた松平信綱、堀田正盛、阿部忠秋、阿部重次、三浦正次、太田資宗という「六人衆」をはじめ、家光の周りには切れ者が多く集まっていた。因みに、太田資宗は江戸城を最初に造った太田道灌(資長;室町時代の歌人武将で、「七重八重 花は咲けども・・・」でも有名)の子孫である。
弟・忠長に対しては事実上自害に追い込んだ家光であったが、もう一人の7歳下の弟で、父・秀忠の隠し子であった保科正之には絶大な信頼を寄せた。
家光が、鷹狩りの途中に立ち寄った保科家の菩提をつとめるお寺の住職からその話を聞き、早速対面し、よほど嬉しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに、正之32歳の時、会津若松23万石へランクアップさせているのである。
正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。また、正之の会津藩は後に、会津松平家となり、激動の幕末には徳川家の側家として大きな役割を果たすことになる。
家光は慶安3年(1650年)には病気となり、政務・諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去する。 享年48。 家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。
遺骸は遺言により一旦は東叡寛永寺に移され、後に日光の輪王寺に葬られた。
同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「大猷院」に定められた。
翌、承応元年(1653年)には「大猷院廟」が造営される。
序ながら、徳川将軍家の霊廟は、初代家康と三代家光が日光山に。
他は、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定が上野・寛永寺に、更に、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂が芝・増上寺に、十五代慶喜が谷中霊園に祀られていて、正室なども一緒に埋葬されている。
寛永寺や増上寺には、今に見られないような豪華な霊廟が建っていたらしいが、東京大空襲で殆どが焼失してしまい、一部の建物は今でも保存されている。
次回、東照宮の御堂全般を記載します。
【小生の主な旅のリンク集】
《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ seesaaブログ FC2 H・P gooブログ 忍者ブログ
《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 日本温泉紀行
【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観 奥州・平泉 大日光紀行と世界遺産の2社1寺群
東北紀行2010(内陸部) ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 東北紀行2010 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002 日光讃歌
【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 南ア・仙丈ヶ岳(1976年) 南アルプス・鳳凰三山 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 尾瀬紀行(1973年) 日光の山々 大菩薩峠紀行(1970年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 奥秩父・金峰山(1972年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「山旅の記」 「山の歌」 「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」 「日光の自然」
PR
この記事にコメントする