世界遺産の日光の寺社群、
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42、日光の世界遺産;二社一寺 「輪王寺大猷院と徳川家」
輪王寺大猷院の本殿
大猷院の豪奢な創造物は、徳川家の権威の象徴として造られたものである。
然るに、幕府の財貨、財宝のみにあらず、各藩からの相当の出資があったことは想像に難くない。 しかし、関が原から大阪の陣が終わってから、家光将軍就任まで数年、家光死後まで30数年しか経っておらず、未だ世は武断政治であり、外様大名をはじめ諸藩も財政的に余裕は全く無かった時代であった。
しかし、家光の時代には、江戸城をはじめ幕府直轄地における御金蔵にはあったのである。
大阪城の天守の中には、豊臣秀吉の存命の頃は、金銀財宝が唸りを上げていたといわれる。
慶長3年(1598年)6月、病床にあった秀吉は、豊臣家の将来・危急の時のために、大阪城御金蔵にあった4億5千万両(現在では約200兆円)を摂津の国、多田銀山の21カ所に分けて埋蔵したと伝えられている。
徳川家康が、豊臣秀頼の財宝を消耗させる為、多くの仏閣・神社を建立・修復させたとされているが、(この中にあの釣鐘騒動の方広寺も含まれる。「君臣豊楽 国家安康」である)焼け落ちた大阪城からは、あと数回は余裕で合戦が出来るほどの金銀が出てきたと言いう。
大坂の陣の頃の豊臣家は僅か60万石程であるが、財宝は凄まじいほどで、この財宝をばらまき、浪人を集めたともいわれる。
大坂の陣の後、徳川政権になって、豊臣家から財産、財宝を押収したのは、大阪城をはじめ埋蔵された財宝、埋蔵金を、全てではないであろうが、半分に見積もっても100兆円である。
100兆円は、現在の国家予算でもあるが、当時は、徳川一藩における金額であるから、いかに巨額であったかが判る。
家光は、懐に100兆円の財産を抱え、祖父・家康のためほんの一部の軍資金(建設費用)
を日光・東照宮のために出したのであろう。
そして、家光死後、4代家綱はほんの一部を捻出して、遺訓にしたがって日光に大猷院を建立したのかもしれないのである。
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